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パーカー・ポイント100点 ボルドー史上最多獲得
シャトー・ペトリュス
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ロマネ・コンティと双璧をなす世界一神秘的なワイン《シャトー・ペトリュス》は、パーカー・ポイント100点満点を最も多く獲得しているボルドー・ワインでもある。ラフィット(4回)、ムートン(4回)、ラトゥール(3回)、マルゴー(3回)、オーゾンヌ(3回)、オー・ブリオン(3回)、イケム(3回)など、全ボルドー・ワインを超越し、史上最多(7度)の100点満点を獲得している。
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シャトー・ペトリュス訪問記
「静謐な美に彩られた別次元の味わい」
2008年8月訪問
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生産者での試飲では、ワインは飲まない。色を見て、香りをかぎ、味わいを評価して吐き出す。飲んでいては、酔っ払ってしまい、ニュートラルな判断ができない。ブルゴーニュのように、1つの生産者で畑の異なるたくさんのワインを生産する場合はなおさらだ。
ペトリュスの場合はそうした心配がない。ここで生産しているのはシャトー・ペトリュスだけ。それを飲んだら、終わりである。ペトリュスの栄光を支えた醸造責任者ジャン・クロード・ベルーエの最後のヴィンテージとなった2007年のサンプルは、ハーフボトルに入っていた。
テイスティング用のグラスでゆっくりと色を見る。明るいルビー色。黒みがかったところはどこにもない。最近の右岸の流行である強い抽出とは無縁なことが外観からでもわかる。グラスを回すと、プラムやチェリーの香りがフワリと立ち上がった。どこまでも上品。スーパータスカンのような黒オリーブっぽい香りもなければ、ナパヴァレーのようなたくましさもない。肉体美を誇示するそれらのワインに比べれば、むしろ物足りないくらいの穏やかさだ。
しかし、口に含んで転がした瞬間にすべてが変わった。天啓に打たれたとはこのことだ。なぜ「天啓」という言葉が浮かんだかというと、スペインのプリオラートを世界に認めさせたアルバロ・パラシオスの「レルミタ」を思い出したからだ。アルバロは、ドメーヌ・ルロワのワインを飲んだときに「天啓に打たれた」と話していた。
「クラスが違う」 私の口をついて出たのはその言葉だった。分析的なコメントを続けるのは意味がないように思えた。凡百のメルロとは別次元にある品格を備えている。自然なブドウから染み出したピュアなエキスだけを詰めたような充実感。それは静謐な美とでも言えばいいのか。一幅の山水画を思わせるひそやかな存在感と共に屹立していた。
濃厚なわけではない。細やかなタンニンがウルトラスムーズに溶け込んでいる。アタックから中間にかけてのふくらみと持続性が素晴らしい。そこから、果てしなく続く余韻につながって、飲み込んだ後も、60秒間はだれとも話したくないくらい続く。このバランス感と、控えめな、それでいて全身を使って優雅さを伝える表現力は、上品な貴婦人そのものだ。
当主のクリスチャン・ムエックスは米国に留学経験があるが、力強さにひかれた時期もあったという。それがいつしか「レス・イズ・モア」(控えめなほど豊か)という美学を身につけた。
「川端康成や井上靖の小説に感じられるようなフィネス(繊細さ)のあるワインを目指している」と語る彼の哲学がそのまま、ワインに現われていた。
フレデリック・ロスピエ輸出部長は多くを語らず、「天啓を受けた」という私の言葉を満足そうに聞いていた。偉大なワインの素晴らしいところは、グラスの液体を共有する中で、お互いの感情まで通い合うような気持ちになれるところだ。私は、50ミリリットルばかりの飲む宝石を飲み干さずにはいられなかった。それは、試飲という職業意識を抜きにして、自然なことのように思えたのだ。
生産者でのテイスティングで同じような体験をしたことはそう何度もない。ドメーヌ・ルロワ、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ、アルバロ・パラシオスくらいだ。もうそれは宗教的な経験に近いといってもいいかもしれない。
「ペトリュスは瓶詰めに時間をかけるのです。1週間かけて3300本を詰めます。7月に詰めて、出荷するのは3月。だから、ボトルショックは全くありません」
詰めたばかりでも完成されていたが、さらに半年以上おけば、完成度としなやかさは高まるだろう。グラス1杯のワインだけでこれだけ、いろいろなことを考えさせるワインはなかなかない。
ペトリュスは70年代、80年代の古いワインもいくつか飲んだ。金字塔の75年にも打ちのめされたし、若き98年の怪物ぶりには目がくらんだ。しかし、現在のこの自然体の美しさにまさるものはない。やはり探して飲むだけの価値があるワインだ。
テキスト 山本昭彦(2009年5月1日 読売新聞より)
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