|
ジェーン・アンソンによる ジャン・クロード・ベルエとのインタビュー記事
|
|
ムエックス社から離れたとは言え、ボルドーにおけるジャン・クロード・ベルエの影響は以前にも増して強まっている。彼は、エミール・ペイノーがシャトー・ペトリュスのパート・タイムのコンサルタントとして就任する前の1964年に、20代前半という年齢でペトリュスの醸造長となった。1964年当時、ペトリュスは将来有望な畑であったが、ポムロールの名を持つ偉大なワインの1つに過ぎず、ル・パンも含め、この小さな右岸のアペラションが生み出す最上のワインの1つではなかった。44年後、ベルエは満足して自身のキャリアを振り返ることができるだろう。
正直に言うと、彼はムエックス社を離れたわけではない。まだ、ムエックス家のコンサルタントとして働いており、モンターニュ・サンテミリオンにあるヴュー・シャトー・サンタンドレの一番下の息子、ジャン・フランソワを手伝っている(彼の一番上の息子、オリヴィエはペトリュスのワインメーカーとして着任し、ベルエの15年来のアシスタントであったエリック・ミュリザスコはムエックスの他のシャトーを担当している)。また、ベルエは醸造学の教員として教鞭を取り、フレンチ・ピレネーで自身のワイン、エリ・ミナを造っている。
↑ イルレギーのイスプールにあるバイオダイナミックの4.5ヘクタールの畑 ↑
私が初めてベルエに会ったのは、ボルドーに1ヵ月おきに行っていた時期で、フランス南西のワインについて『デカンター』誌に寄稿する初めての記事を書いていた頃だ。ベアルン近くのイトゥサス/Itxassouという小さな村に生まれたベルエは、正しくピレネーの子で、イルレギーと呼ばれる目立たないアペラション(ドメーヌ・ブラナでも醸造を行っている)のイスプール/Ispoureにあるバイオダイナミックの4.5ヘクタールの畑(写真上)を購入するために、1998年に地元に戻ったのだ。エリ・ミナは、グロ・マンサン、プティ・マンサン、そして少量のプティ・クルビュをブレンドしたワインである。また、彼はカベルネ・フラン100%の赤も造っている。エリ・ミナという言葉は、バスク語でノスタルジー(郷愁)を意味し、以前のインタビューでベルエは次のように説明している。
この名前を選んだ理由はとても象徴的なことです。私はセンチメンタルな人間で、この土地を購入することは自分のルーツを再確認する最高の方法であったのです。私はイトゥサスのバスク家の一番下の息子で、家族はこの美しい土地への愛と強い文化の伝統を教えてくれました。私は、ワインとブドウ樹に対する情熱を探求するために、地元に戻りたかったのです。
ベルエと一緒にワインを試飲した際、彼が私の意見に同意してくれ、大変嬉しかったことを覚えている。しかし、今、思い返すと、自分のテイスターとしての技術を超えて、ベルエのことを発言していたことに気付く。彼は非常にジェントルマンで、人を不快にさせるようなことはしないのだ。そして、彼のワイン造りにも、その親切で柔らかい物腰が反映されている。
ペトリュスのオーナー、ジャン・フランソワ・ムエックスに会った際、文化を重んじ、多くのことにかんして私と共通した見解を持った男だと思った。その後、彼は色々な面で私の人生を豊かにしてくれた。1964年9月、彼は私をペトリュスに迎えてくれた。ここに私を呼んだのは彼であって、ワインではない。
私は何をおいても技術者だ。一日の終わりはボトルや価値のことではなく、ワインのことを思う。個人的にムエックスで造ったワインのなかで、魅惑的なものとしてはシャトー・トロタノワを好み、女性的で繊細さを持つわいんとして、シャトー・マグドレーヌを好む。そして、もちろんペトリュスも。我々のリストのなかには10のポムロールがあり、私はいつもシャトー・ペトリュスの秀でた出来に驚かされる。また、そのペトリュスのなかでも、4-5の区画は特に素晴らしい。
私にとって最も心地よいワインは、繊細さと豪華さを供えたブルゴーニュの白ワインだ。また、物事を語る真の表現を持つ巨大な個性の伝統的なリオハも大好きだ。しかし、いつも私は伝統を重んじている。プリオラートのワインは確かに力強いワインであるが、あまり私を魅了しない。
80%のボルドーは良く出来ているが、それについて多くを話すことはない。サンテミリオンのシャトー・ベレール、ペサック・レオニャンのシャトー・オー・バイィ、シャトー・オリヴィエ、サンジュリアンのシャトー・デュクリュ・ボカイユはおとなしく控えめなワインで、真の称賛にふさわしい。私のキャリアのなかで見た最も顕著なことは、グリーン・ハーヴェストやオーバー・エクストラクション(搾りすぎ)、過度の熟成など、機械的に攻撃的なテクニックを用いることだ。多分これらの方法で良いワインが出来ることだろう。でも、ボルドー・ワインではない。
物事を静かに控えめに進めるという彼の方針は、ワイン販売についての考えにも表れており、初物の試飲期間の時に批評をしたため、騒動を巻き起こしたこともある。
プリムールで我々はワインを早く評価し過ぎている。ジャン・ピエール・ムエックスと仕事を始めた時には、シャトー・ペトリュスの販売は5月か6月で、販売されてから試飲が行われるのが常であった。60年代や70年代当時は数少ないトップのワインだけがプリムールで販売されていて、残りはボトル売りだった。何百ものワインがかなり早い時期に魅力的になっていなければならないという考えは、ボルドー・ワインのスタイルを損なう危険性がある。
多くの人が言うように、今日1本何千ポンドの値を付け、これまで尚早に投資をする人々の懐を潤してきたペトリュスの立役者からこのような言葉が出るとはとても皮肉なことである。彼は、しかし、同意するだろう。
人々が真似をしたがったために、ペトリュスの成功がこれに貢献してしまったのだろう。しかし、4月に販売するというのは、実はメディアが決めたことだ。時期はどんどん早まり、ある団体にいたっては、ボルドー以外の市で試飲会を開くこともある。これはドラマ作りであって、プロの仕事ではない。ワインを理解している人は分かるだろうが、ワインは時間が経つにつれて変わるもので、注意深く観察する必要があり、時期尚早に判断するものではない。
やはり、プロフェッショナルな仕事に戻ったほうが良いだろう。もちろん、ワインについて書く人がいなければならないが、焦点はプロフェッショナルに戻すべきだ。スポーツ・ジャーナリストがナショナル・ラグビー・チームの構成を変えることができるかもしれないが、人々は変に思うだろうし、それはコーチの仕事で、評論家のものではない。推論が横行する市場は、ワインにとって悪夢のようだ。ワインは飲んで楽しむために造られるべきもので、資産と考えられた時、もうワインではなくなる。人質となったワインを解放すべきだ。多くの真のワイン愛好家はそれほど裕福ではなく、ボルドーのベスト・ワインを飲む機会に恵まれないことが悲しく、残念でならない。
話をワイン造りに戻したほうがベルエは心地よく思うだろう。ベルエの前に立ちはだかった最初のワインは、1962年にタンクのサンプルを試飲したラトゥール1961年物であった。当時、彼は醸造学の教員をしており、学生の試飲用として到着したサンプルだった。
とても若く、とても約束されたワインだった。私はそれを一生忘れないだろう。
自身のキャリアで最も誇りに思うワインは、難しいヴィンテージでも可能な技術があることを学んだ1975年のペトリュスだったと言う。
今、多くの人が行っていることと逆のことを学んだ。それは、短いマセラシオン、短い抽出、繊細さを守ることである。しかし、最も上品でメルローのようなニュアンスまである1971年物も大好きだ。そして、自然の寛大さと濃厚な果実を備えた1982年物も。しかし、いつも我々は自然に驚かされる。1964年は私の初ヴィンテージで、とても暑く収量が多い年だったが、今もまだ素晴らしいワインであることから、テロワールは人間より強く、人はワインを目の前にして謙虚にしていなければならないという証明となっている。
そして、ワイン造りや教鞭を取っていない時、たくさんの人に本を書いてはどうかと勧められながら、ベルエは次に何をするか考えている。
いつか、テイスティング本を書こうかと思っている。私は詩人の息子なので、言葉は私にとって大切だ。でも、自伝ではない。私の人生など重要ではなく、私が受け継ぐテロワールだけが重要なのだ。
彼の言い回しは、父親も必ず誇りに思うだろう。
*ジェーン・アンソン/Jane Anson略歴:
ボルドーに本拠を置くワイン・ライター兼紀行作家。イギリス『デカンター』誌のボルドー特派員であり、『ワイン&スピリッツ』誌や、『ワイン・ビジネス・インターナショナル』誌などにも記事を寄稿している。また、エコール・デュ・ヴァン ボルドー・ワイン・スクールで講師も務めている。
|
|
|