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インド・ワインと聞いて猜疑心を持つ方も多いだろう。
しかし、そんな先入観を根底から覆す衝撃のインド・ワインが存在する。スタンフォード大学卒業後、シリコン・バレーで働いていたラジーヴ・サマントが故郷のインドに戻り、1997年に創設したスラ・ヴィンヤーズのワインだ。驚くべきことに、スラ・ヴィンヤーズのワインはフランス、イタリア、イギリス、アメリカ、カナダといった古くからのワイン消費国に輸出され、伝統的なマーケットで大センセーションを巻き起こした。しかし、それはインド・ワインという物珍しさからではない。超一流のワインのプロたちに高く評価されていることが最大の理由だ。例えばフランスでは、アラン・デュカスの3つ星レストラン<ルイ・キャーンズ>にオン・リストされている。もちろん、インド、いやアジア・ワインとして初めての快挙。また、フランスのワイン・マニアに絶大な人気を誇るパリのカリスマ・ワイン・ショップ、ラヴィニア Laviniaが大々的にプロモーションを展開、ソーヴィニヨン・ブラン、シュナン・ブラン、ヴィオニエ、シラーズ、そしてジンファンデルが、品種別売上ランキングのトップ3にランキングされたという。
加えて、あの『ルヴュ・デュ・ヴァン・ド・フランス』までが、幾度となくスラ・ヴィンヤーズのワインを取り上げ、高く評価している。アメリカでは、『ワイン・スペクテーター』が5ページにわたってスラ・ヴィンヤーズを大々的に特集。2008年夏に閉店してしまったが、映画監督フランシス・コッポラと俳優ロバート・デ・ニーロ、ロビン・ウイリアムスの共同経営で知られたサンフランシスコのルビコンでもサーヴィスされていた。。そして、このレストランのワインを管理していたのが、1988年にパリで開催されたフランス・ワイン世界ソムリエ・コンテストでアメリカ人として初めて優勝したラリー・ストーン氏とくれば、スラ・ヴィンヤーズのワインの品質にもはや疑いの余地はない。イタリアでは、なんとあのバルバレスコの巨人、アンジェロ・ガヤが妻とともに経営する輸入流通商社が、イタリアにこのインド・ワインを輸入・紹介したというから驚きを禁じえない。
このように、スラ・ヴィンヤーズのワインは、<世界に通用するアジア最高のワイン>として、世界各国のワイン通を虜にしてきた。もちろん、インド国内でも人気が大爆発、一躍マーケット・シェア第1位のインド最高のワイナリーとなったのである。
スラ・ヴィンヤーズは、インド西部の都市ムンバイ(ボンベイ)から180キロ北東に離れたナシクの町に位置する。海抜610メートルの高地にあるため、スペインやカリフォルニアに似た気候を享受し、我々の想像とは裏腹に、ブドウ栽培にうってつけの土壌が広がる。地質調査で、これに気が付いたラジーヴ・サマントは、ソノマの著名なワイン醸造家、ケリー・ダムスキーをワイナリーの総コンサルタントに招聘。1997年にソーヴィニヨン・ブランとシュナン・ブランを植樹し、2000年に初めてワインが誕生した。世界を震撼させるインド・ワイン造りへの挑戦は、ここから始まったのである。「ワインは畑から・・・」の哲学を持つダムスキー氏の指導の下、現在では、シュナン・ブラン、ソーヴィニヨン・ブラン、ジンファンデル、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー、シラーといった品種が、環境保全型農業、堆肥の使用など有機的アプローチで栽培されている。また、インドで初めてワイナリーに空調システムを導入するなど、醸造・熟成も万全の管理で行われている。
2028年には日本を抜き、中国・アメリカに次ぐ世界第3位の経済大国になると言われるインド。そのインド最高峰のワイナリーが、世界のワイン・マニアに真価を問う衝撃のワインを送り出しているのだ。
*ワイナリーの名前は、サマント氏の母スラブハ/Sulabhaさんに因んだもの。その響きがサンスクリット語で「太陽」や「太陽神」を意味するスーリャ/Suryaに似ていることから、太陽がワイナリーのロゴとなった。
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ラジーヴ・サマント Rajeev Samantはインドにおける新進気鋭の企業家。そのサマント氏が創設したスラ・ヴィンヤーズは、太陽のロゴが印象的なワインの生産者。サンフランシスコの大手ソフトウェア会社、オラクル Oracleで若手財務マネージャーとしてキャリアを積んだサマントの、インドでブドウ栽培とワインの醸造を行いたいという強い意志が、
故郷インドに戻るきっかけとなった。
サマントはナシクに家族が所有していた75ヘクタールの土地に目を向けた。ナシクはムンバイから180キロ離れた食用のブドウを栽培する重要な地域である。実際はワイン用のブドウを栽培するのにも適しているのだが、誰もワインを生産することに考えが及ばなかった。サマントはカリフォルニアのソノマから呼び寄せたダムスキー氏とともに、1997年に最初のブドウ樹を植樹した。
当初、周囲からの抵抗(ワイン生産者はほぼ存在しておらず、ワイナリー・ライセンスを取得するのも難しかった)も多かったのだが、サマントの夢はすぐに現実のものとなった。カリフォルニアの哲学を掲げたワイナリーはワイン革命を起こし、ナシク地域での新しい生産者間で協力関係を作ることに大きく貢献した。
「インドのワイン業界は年間25-30%の割合で拡大しているが、スラ・ヴィンヤーズはそれよりも早い伸びを示している。我々は世界で通用するワインを生産しており、フランス、イタリア、イギリス、カナダ、アイルランドではインド・ワインの代表として流通している」
とサマントは語る。
「振り返ってみると、この挑戦は困難だったが、だからこそ充実感もある。私ほど自分の仕事に幸せを感じる人はいないと思う」
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ケリー・ラムスキー Kerry Damskeyのワイン造りにおける哲学は、「良いワインを造るには良いブドウでなければならない・・・」といったシンプルで真っ直ぐなもの。「ワインに個性を与えるのは醸造家の仕事だが、ワインのアイデンティティーを作ることはできない。ワインのアイデンティティーはブドウからもたらされるもので、ブドウのそれは、どこでどのように栽培されたかによって決まるのだ」とダムスキーは説明する。彼のワインへのアプローチは、まるで宝石を削るようなものだ。「まずは高品質の原材料から始めなければならない。そして、ダイヤモンドやエメラルドのように、表面を削ってなかにあるものを輝かせるように磨いていくのだ。」
ケリーは高校生の時に既にワインメーカーになる夢を抱いていた。サンフランシスコで育ったケリーは、家族とともに西海岸のワイン生産地を訪ねることもあり、ワインへの興味はますます強くなっていった。彼の母はワインの生産についてクラシックな教科書をケリーに買い与えた。『テーブルワイン カリフォルニアでのワイン醸造技術』と題された本が高校3年生のケリーにとってすべての始まりだった。高校卒業後、ケリーはカリフォルニア州立大学デイヴィス校の醸造&ブドウ栽培学部に入学。4年後、学士号を手にしたケリーは、大学で学んだ技術を試そうと、ワイン生産の世界に飛び込んだ。彼はロディからサンディエゴにあるワイナリーで修行を積み、実地での知識を得た。1986年にはチョーク・ヒルのゼラーバッチ・ワイナリー Zellerbach Wineryで醸造を任されることになり、長年の夢であったソノマでのワイン造りを実現させた。そして、彼はそこでソノマ最高のワインメーカーの1人としての地位を確立した。
インドにワイナリーを開設するといった風変わりな考えを持つ、若く活気にあふれたインドの青年実業家、サマントとの出会いは、ケリーの好奇心を刺激した。「私は素晴らしいワインを造るために、良い果実が育つヴィンヤードを探していた。そして、スラの畑を目の当たりにした時、ここしかないと確信したのだ。」とケリーは振り返っている。ケリーは今もワイン・マスター試験のための勉強を続けている。「私はまだ学生だ。素晴らしいワインを造るために欠かせないテロワールという材料について勉強している。自分にしかできないワインを造りたいのなら、学び続ける熱心さを忘れてはならない。」
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