HOME >> 生産者情報 >> ドメーヌ・タンピエ(フランス/プロヴァンス地方) 
↓INDEX↓
ドメーヌ・タンピエの歴史
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ドメーヌの概要
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各キュヴェの詳細
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各種ワインガイドの評価
レ・メイユール・ヴァン・ド・フランス

パーカーワイン・バイヤーズ・ガイド/第7版

ワイン・スペクテーター

ヴィノス

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映画
「プロヴァンスの贈りもの」


 バンドールの代名詞と言えるほどの長い歴史と世界的な名声を持つドメーヌ・タンピエ。しかし、近年の躍進は鬼神のように凄まじい。『ワイン・スペクテーター』誌で歴代のバンドール得点上位15傑(96-93点)のうちに、なんと12本(しかもベスト5すべてにランク・イン)が選出されたのを皮切りに、最新のロバート・パーカーの『ワイン・バイヤーズ・ガイド/第7版』では南仏の5つ星ワイン4つのうちの3つをタンピエのカバッソウトゥルティーヌミグアが独占し、ギガルのテュルク、ランドンヌ、ムーリーヌに並ぶ快挙を達成した。また、ロゼ・ワインはヴィノス(旧インターナショナル・ワイン・セラー)誌で14年連続92点以上を獲得し、記録を塗り替えている。『ワイン・スペクテーター』誌では2009年物のフランス産の全ロゼ・ワインのなかで、見事No. 1に輝いた衝撃の実績を持つ。さらに、ワイン・ガイドのミシュランと形容される『レ・メイユール・ヴァン・ド・フランス』では、2011年版で3つ星に昇格。プロヴァンスで唯一、ラフィット、ラトゥールと肩を並べるドメーヌとなった。フランスのこの超名門ガイドは創刊から16年間、プロヴァンスのドメーヌに3つ星を与えたことは一度もなかった。その壁が、ドメーヌ・タンピエによって破られたのである。まさに歴史的快挙である。もちろん、最新の2023年版でも3つ星を堅持している。

 2008年にはラッセル・クロウ主演で大ヒットした映画『プロヴァンスの贈りもの(原題:A good year/監督:リドリー・スコット)』のなかにも登場し、少年時代の主人公が叔父からワイン造りの素晴らしさを教えられる場面で<真実を伝える美酒>として印象的に使われ、映画においても高級シャンパーニュに並ぶ演出道具として活用されるに至った。このようにドメーヌ・タンピエは、今やプロヴァンスのドメーヌとして完全無欠の評価を受けている。「ドメーヌ・タンピエを味わうことなく、バンドールを、いや、プロヴァンス・ワインを語るなかれ」と断言できる所以である。
◆ドメーヌ・タンピエの歴史◆

 ドメーヌ・タンピエのブドウ畑はルイ15世の在位(1715-1774年)にすでに存在していた。1834年以降はタンピエ一族が所有し、家族経営を続けている。19世紀末のフィロキセラの禍害の後、レオニー・タンピエ/Leonie Tempierがアメリカ産台木を用いてブドウ樹を植樹し、畑を復興。1880年には醸造所を建設した。しかし、1929年の世界恐慌でワインの売上は激減。畑の一部を桃やリンゴ畑に転換することを余儀なくされた。1936年、跡取り娘のリュシー・タンピエ/Lucie Tempierがリュシアン・ペイロー/Lucien Peyraudと結婚。2人はエクサン・プロヴァンスで醸造学を学び、近隣のドメーヌでの研鑽を経て、1940年にドメーヌに参画した。ここからドメーヌは躍進の時代を迎える。高貴品種と呼ばれるムールヴェードル、サンソー、グルナッシュを畑に植樹。1943年には、今やドメーヌの代名詞となったロゼ・ワインを初めて元詰め。そして、リュシアン・ペイローは1945年にバンドール生産者組合の会長に就任、1947年にはINAOのメンバーにも選出された。1960年からはリュシアンの2人の息子であるジャン=マリー/Jean-Marieとフランソワ/Francoisもドメーヌに参画し、ドメーヌはさらなる飛躍を遂げるが、リュシアン・ペイローのバンドールの名声獲得の戦いは、その後30年にわたり続く。画像:若かりし頃のリュシアン・ペイロー



 この信念を持ち続けていたリュシアンは引退する1982年まで、バンドールの地位向上に奮闘する。このひたむきな生き様によって、リュシアン・ペイローは「ムールヴェードルの父」と呼ばれ、バンドールの生産者にとっての精神的支柱となった。彼の功績は、今でもバンドールの生産者の心に深く刻まれている。
画像:ジャン=マリーとフランソワの兄弟


 予断だが、ブルゴーニュのスーパー・ネゴシアン、ヴェルジェのジャン=マリー・ギュファンスも、かつてはドメーヌ・タンピエで研修をしていた。高校卒業、ジャン=マリーは憧れていたリュシアン・ペイローの下、ドメーヌ・タンピエでワイン造りの基礎を学んだのだ。事実、『ヴィニフェラ』誌のインタビューのなかで、ジャン=マリー・ギュファンスは「私に最も感銘を与え、現在のワイン造りに影響を及ぼしたのはリュシアン・ペイローである」と述べている。ドメーヌ・タンピエは、若き才能を育んだドメーヌでもあるのだ。

 このリュシアンの遺産を引き継いだジャン=マリーとフランソワの兄弟は、さらなる高みを目指した。2人は長年の研究の末、また、ワイン愛好家たちの意見も参考にして、ミグアトゥルティーヌカバッソウという3つの単一クリュを別々に醸造して、単独のワインを造ることを決めたのである。バンドールにブルゴーニュのようなクリュの概念を持ち込むことは、当時としては画期的なことで、この点でもドメーヌはパイオニアであった。

 このクリュ・バンドールの創造と並行し、ペイロー兄弟はブドウ栽培の改革にも着手した。化学肥料と除草剤の完全廃止、機械による耕耘と除草、リュット・レゾネ、台木の選別など・・・、限りなく有機栽培に近いブドウ栽培を実践し、ワインに自然なテロワールが反映するように努めていった。

 90年代中期からはバイオダイナミック農法の手法も導入。たとえば、ブドウ樹の剪定やワインの瓶詰めは、月が欠けていく満月から新月になる14日間のあいだに実施。これは、この時期に大気圧が高まり、タンクや樽中のワインが最も安定した状態になること。ボトル・ショックでワインが不安定になることを最小限におさえることができること。瓶詰めされたワインがより良く熟成するといった利点があることが理由。

 ミグアトゥルティーヌカバッソウという3つの単一クリュの名声を世界的に広めることに成功したジャン=マリーとフランソワ兄弟は、2000年に引退を決意。ドメーヌの実質的な運営はダニエル・ラヴィエ/Daniel Ravierに委ねられた。しかし、ワイン造りの第一線からは退いたものの、ペイロー兄弟は4人の妹と法人会社を設立し、相続に伴うドメーヌの分割を避け、ドメーヌが永続する手立てを施し、また、財務的な面からドメーヌの管理に携わり続けている。
画像:ダニエル・ラヴィエ


 現在ドメーヌ・タンピエの支配人兼醸造家を務めるダニエル・ラヴィエは、ドメーヌ・オットを皮切りに南仏で10年近く働いてきた未来を嘱望される天才醸造家。その証拠に、毎年フランスの各アペラションから1人ずつ若き才能を選出している『ラ・ルヴュ・デュ・ヴァン・ド・フランス』誌は、ダニエル・ラヴィエを2004年度の「若き才能」に選出した。

 ラヴィエのリーダーシップのもと、ドメーヌ・タンピエは2010年夏、《フランスのワイン・ガイドのミシュラン》、『レ・メイユール・ヴァン・ド・フランス』の2011年版で最高峰の3つ星に昇格した。この名門ガイドは創刊から16年を迎えるまでプロヴァンスのドメーヌに3つ星を与えたことは一度もなかった。その壁が遂にドメーヌ・タンピエによって破られたのである。まさに歴史的な快挙である。

 このドメーヌ・タンピエの3つ星昇格は、175年以上に及ぶドメーヌの歴史と、「バンドールの父」リュシアン・ペイローの戦いに1つの区切りを打つものである。なぜなら、『レ・メイユール・ヴァン・ド・フランス』での3つ星格付け獲得によって、ドメーヌ・タンピエはプロヴァンスのドメーヌで唯一、シャトー・ラフィット、シャトー・ラトゥール、シャトー・マルゴーといったフランスの超一流ドメーヌに肩を並べたからである。「ムールヴェードルという力強い品種に立脚したバンドールは、ボルドーやブルゴーニュ、コート・ロティ、エルミタージュ、シャトーヌフ・デュ・パプに比肩するフランスで最も長命なワインの1つである。」と断言していたリュシアン・ペイローの信念が、遂に評価となって報われたのである。

 今後、ドメーヌ・タンピエの歴史は新しい時代を迎える。その創造を目撃し、後世に伝えるのは、21世紀に生きる私たちである。

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