HOME >> 生産者情報 >> ヴィニョーブル・ギョーム(フランス/フランシュ・コンテ地方) 

↓INDEX↓
世界一の苗木家
アンリ・グザヴィエ
・ギョーム
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中世から名を馳せた
ブルゴーニュの
テロワールに匹敵する
伝説の丘
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ブルゴーニュ以外で
造られる
ブルゴーニュを
彷彿とさせる
カリスマ・ワイン
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ドメーヌ概要
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ヴィニョーブル・ギョームの
場所
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フランシュ・コンテ地方の
ワインと
ギョーム家の歴史
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ギョーム家が
苗木を提供している
世界の超一流ドメーヌ
(抜粋)
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商品ラインナップ
スタンダード・キュヴェ
コレクション・レゼルヴェ
スパークリング
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ピノ・ノワールの
クローンについて
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ペピニエール・ギョーム社
について
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台木用の畑
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穂木採取用の
母樹の畑
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苗床
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接ぎ木について
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苗木家の
一年の仕事の流れ
(図)
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用途に応じた
苗木の形状
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台木の品種について
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各種ワインガイドの評価
2024年版
2023年版
2022年版
2020年版
2019年版
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 ヴィニョーブル・ギョームのあるフランシュ・コンテ地方は、中世の時代から隣接したブルゴーニュ公国(879-1477)の影響を受け続けてきた。高名なブルゴーニュに匹敵する土壌の質が発見されると、主要な丘陵の日当たりのよい斜面(南と南西向き)は、瞬く間にブドウ樹で覆いつくされていった。こうして、ジィ丘陵とその周囲の場所で生まれるワインの質は、時代とともに名声を確立していった。
ペピニエール・ギョーム社 → 

 フランシュ・コンテのワインを愛してやまなかったフランス王、アンリ4世(1553-1610)は、フランシュ・コンテ地方のワインを
果実味に溢れてハーモニーが取れ、
飲まずにはいられない魅力を持ったワインである・・・
と語っている。また、古い文献によれば、フランシュ・コンテ地方のワインは、赤髭王と呼ばれた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世(1122-1190)の宮廷や、デンマーク王室、さらには英国、ドイツ、プロシア、ロシアなどでも飲まれていたと記述されている。当時の輸送は、24ヘクトリットルの容量の巨大な樽が使われており、その樽は“グレイ港の樽”と呼ばれていた。ジィ丘陵の北西に位置するソーヌ河流域の町グレイ/Grayは、当時、河川運搬の港として大変栄えており、フランシュ・コンテのワインは、ここから船を使ってヨーロッパ各国へ運ばれていた。フランシュ・コンテ地方のブドウ栽培の名声は、ブザンソン区の大司教が、シャトー・ド・ジィ(ジィ城:現在は毎年多くの人が見学に訪れるこの地方の観光名所)を建設して、11世紀初頭からフランス革命(1789年)にかけて、ジィ丘陵とシャルセンヌ村のブドウ畑における自治をブルゴーニュ伯爵によって認められた時代に一層高まった。19世紀半ばになると、住民の数は983人に達し、400ヘクタールの畑でブドウが栽培されていた。このときが、フランシュ・コンテ地方のワインの最盛期だった。

 しかし、栄華は長く続かなかった。1853-54年にかけてコレラなどの伝染病が2度にわたって村を襲い、シャルセンヌの人口の実に4分の1が失われてしまった。さらに、この災禍の傷が癒えぬ1885年、もう1つの災いが起こった。これが、フィロキセラの蔓延。アメリカからもたらされたブドウ樹に壊滅的な打撃を与えるこの害虫は、ボルドーで発生すると、西から東へ、瞬く間にフランス全土へと広がり、フランスのブドウ畑を荒廃させてしまった。わずか数年の間にブドウ畑は失われ、造り手たちは破産し、どこか他の場所で働くか、祖国を離れることを余儀なくされた。

 このフィロキセラという災害によって、研究者や造り手たちはフィロキセラを防ぐ方法と、2千年にわたり培われてきたブドウ品種の選別とブドウ品種の土壌と気候への適合という、“遺伝形質”を守ることを研究し始めた。

 このような状況下、1732年からジィ丘陵でブドウ栽培を続けてきたギョーム家は、1895年にペピニエール・ギョーム/Pepinieres GUILLAUMEを設立した。(*ペピニエールとはフランス語で苗木家の意

 ペピニエール・ギョームは、育種する苗木の質の高さとフランスのブドウ畑の復興に対する大きな貢献度によって、すぐに高い名声を確立した。現在、ペピニエール・ギョームは、苗木の分野において世界で最も重要な会社。2002年には1,400万本の苗木を世界中に出荷し、世界で3指に入る規模と質を誇っている。特にシャルドネとピノ・ノワールの育種に関しては世界1位のリーディング・カンパニー。育種される苗木の60%が海外に輸出されている。

 フィロキセラの災害は、長く厳しいものであった。非常に貧しくなってしまった造り手たちは、かつてブドウが栽培されていたジィ丘陵の復興に着手する。仕事を失われた村人の多くもこれに参加した。しかし、次から次に困難が訪れた。第一次世界大戦(1914-1918)で若い労働力が失われ、加えて、べと病、うどんこ病といった新しい病害に対する有効な手段がなかったため、再植樹されたブドウ畑を維持することができなかったのだ。こうしてジィ丘陵は、再び荒地として見捨てられてしまった。

 ギョーム家が、このジィ丘陵の復興に着手したのは1970年代から。苗木の育種で世界的な名声を確立したギョーム家は、かつて中世から19世紀にかけてシャルドネとピノ・ノワールが栽培されていたジィ丘陵に広がる最上の石灰質のテロワールに、苗木の育種によって培った最高のクローンのシャルドネとピノ・ノワールを植樹していった。今日、ドメーヌの栽培面積は30ヘクタールに広がり、造られるワインはフランシュ・コンテ地方で最高、いや偉大なブルゴーニュ・ワインに匹敵する高品質なワインとして、評論家たちから高い評価を受けるものとなった。こうして、かつて造られるワインによってヨーロッパ中にその名声をとどろかせたジィ丘陵のブドウ畑が、再び現代によみがえった。

 現在、ペピニエール・ギョームでは、およそ50種の品種、200種のクローン、15種の台木を取り扱っている。それぞれの苗木の生育条件と土壌にあわせるために、本拠とするフランシュ・コンテ地方以外のフランス全土に、台木用の畑、苗木用の畑、穂木を採集するための母樹用の畑を所有している。
↓プロヴァンス地方のペルチュイ/Pertuis村と
ラングドック地方のボーケール/Baucaire村に所有する台木用の畑↓
↓ギョーム家が所有する苗床用の畑。ソーヌ河とローヌ河沿いの8箇所の村にある↓
↓ギョーム家が所有する苗木(苗床から大きくなったもの)用の畑。
フランスの主要なワイン産地の約13の村に点在↓

アンリ・ジャイエ、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ、ドメーヌ・ルロワ(ドメーヌ・ドーヴネ)、
アンリ・フレデリック・ロック、ドゥニ・モルテ、ジョルジュ・ルーミエ、メオ・カミュゼ、コント・ラフォン、
ドメーヌ・ルフレーヴ、ボノー・デュ・マルトレー、ロベール・ジャイエ・ジル、サロン、クリュッグ、
ボランジェ、ジャック・セロス、ドン・ペリニヨン、ルイ・ロデレール、クレ・ド・セラン(ニコラ・ジョリー)、
ディディエ・ダグノー、リュシアン・クロシェ、アンリ・ブルジョワ、ヴァンサン・ドーヴィサ、
ウィリアム・フェーヴル、ツィント・ウンブレヒト、マルセル・ダイス、マルク・クレイデンヴァイス、ルネ・ミュレ、
ギガル、シャプティエ、シャトー・デ・ジャック、ガイア、アンティノリ、カ・デル・ボスコ、
イゾレ・エ・オレーナ、カーゼ・バッセ(ジャン・フランコ・ソルデラ)、アルベルト・アントニーニ、
ヨスコ・グラヴナー、オーパス・ワン・・・など

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